大田区はなぜ「ものづくりの町」に?その歴史を紐解いてみた

コラム

大田区はなぜ「ものづくりの町」に?その歴史を紐解いてみた


東京都大田区は、約3,400もの工場が集まる「ものづくり」の町金属加工を専門として、「切削」「成形」「メッキ」など、一加工に特化して請け負っている工場が多く見られます。ドラマ「下町ロケット」の舞台としても知られ、その技術は「大田区に空から図面を投げ込むと、どんなものでも翌日には見事な製品になって出てくる」という言葉があるほど。

今回は、日本の製造業を支える大田区を舞台に、町のものづくりの歴史を紐解いていきます。


大田区の町工場の今

引用元:コトバンク

工場数:4,362(東京都市区町村 第1位)

従業者数:35,741名(東京都市区町村 第1位) 

製造品出荷額:7,796億円(東京都市区町村 第3位)

(※工業統計調査報告調べ、2008年時点)


「仲間まわし」で発展した町

大田区は、家族経営や、工場と住居が一緒の場合が多く、小規模な町工場が発展してきた地域です。従業者数9名以下の企業が全体の3/4を占めるため、一工程に特化した加工を一工場で担うことがほとんどですが、近隣の工場同士が協力して、お互いの専門技術を補い合う方法で進めることもあります。

例えば、自社工場では切削作業しかできなくても、近隣の穴あけ専門の工場や研磨専門の工場に後工程を依頼して、地域のネットワークを使って納品する方法です。これを「仲間まわし」といって、特に大田区では、あまりに近距離で自転車で回れてしまう程のコミュニティであるため「ちゃりんこネットワーク」とも呼ばれます。このネットワークは、大田区の工場が独自の発展を遂げたカギであるといえます。


大田区のものづくりの歴史

日本有数のものづくりの町大田区が、どのような歩みを経て発展し今日に至るのか、その流れをみてみましょう。


江戸期:麦わら細工の始まり

引用元:歴史探偵「江戸自慢三十六興  大師河原  大森細工」

大田区の工業は、江戸時代麦わら細工(麦稈真田)製作工場に始まります。

麦稈真田とは、麦の茎を加工して組みひもに編み上げたもの。女性の手仕事による麦わら細工は、後に工産物として評価され、明治には花形産業として開花します。


明治末期:東京瓦斯(がす)の建設

引用元:大田区工業ガイド2011

海苔養殖が伝統産業だった大田区で、工業化がだんだんと進むのは明治末期からです。明治41年に、東京瓦斯大森製造所の建設が許可されたのが最初の出発点といえます。また、この時期は、大森駅・蒲田駅が開設され、都市のインフラが整ってきた時代ともいえます。


大正期:住工混在地域の誕生

引用元:三井住友トラスト不動産 東京都大森・蒲田

耕地整理・区画整理が進む大正時代になって、やっと工場進出の条件が整います。東京湾沿いに工場が見え始め、関東大震災の後には、都市部にあった多くの工場が大田区に転入してきます。大田区近代工業が進み始めると共に、次第に京浜工業地帯の輪郭が形成され、多摩川沿い住工混在地域が作られました。


昭和前期:軍需品で発展

昭和に入ると、戦争による工業技術の発展都市の急速な工業化が進みます。戦車や機関銃など、軍需品の需要が高まり、大田区もその担い手となりました。工場から出る煙や振動の問題が怒り出したのもこの時期です。

太平洋戦争による影響で焼野原となる大田区ですが、戦災を免れた機械や資材を駆使して、復興に取り組みます。軍需産業からの転換を図るため、洗面器やリヤカー、農機具の製造を開始しました。

そんな中、朝鮮半島での動乱による軍用資材の「特需」、アメリカ軍からの軍需品の「新特需」が起こります。これらの出来事により、技術面品質管理の面で海外から厳しい修練を受けた大田区は、技術力に磨きをかけ、世界に誇る工業都市としてのスタートを切りました。


昭和中期:工業用地の拡大

引用元:三井住友トラスト不動産 東京都大森・蒲田

それまで続いていた海苔養殖も昭和中期に廃業になると、広い海苔干し場の多くは工業用地に様変わりします。大田区産業会館が開館した後、大田工業連合会が他府県中卒者を対象に集団求人を求め、労働力確保に努めました。東京23区内では工場数・従業者数ともに三本の指に入るようになり、だんだんと工業都市としての頭角を現していきます。


昭和後期①:都内一番の工業区へ

引用元:株式会社福島製作所

1965年からのいざなぎ景気の下、大田区は都内で一番の工業区として発展していきます。当時の工業統計では、鉄鋼、非鉄金属、金属製品、一般機械、電気機械などの機械金属系7業種全体の80%を占めるまでになり、現在の金属加工特化型の原型が生まれたのもこの時期といえます。次第に大規模企業の区外移転が進むにつれ、区内には量産型の機械金属加工を中心とする中小規模工場が増加・残留しました。


昭和後期②:「仲間まわし」の誕生

引用元:ジャパンアーカイブス

昭和後期に訪れたオイルショックは、「仲間まわし」という独自のネットワークを生み出しました。

仕事量の激減親企業からのコストダウン要求に苦しんだ中小規模工場は、一社依存型の企業体質を反省し、一つの加工分野に特化して複数企業から受注することで、リスクを分散する体制づくりを進めました。専業化にあたり、競合の少ない分野へ進出し、地域内で各専門技術を補い合うことで、付加価値の高い高度な完成部品や製品の生産を可能にしたのです。これが、「仲間まわし」の始まりといえます。


平成~現在:工業の衰退・技術の発展

平成に入ると、バブル経済が崩壊し、GDP伸び率がマイナスを記録し始めます。一方で、アジア諸国の成長は著しく、日本でも製造業の生産拠点を国外にシフトする動きが出始めました。これが、「産業の空洞化」です。

大田区も経済停滞期を迎え、打開策として技術の高度化産学連携を模索する工場が増え始めました。2003年までの3年間で、大田区では工場数が約1,000減少するという危機を迎えます。

今日残っている大田区の町工場は、この厳しい危機の中で、自社製品や自社技術を独自開発したり、優れた技術を用いて顧客へ課題解決の提案を行ったりと、独自のノウハウを身につけた工場たちなのです。


まとめ

いかがでしたでしょうか。戦争オイルショックなど、大田区が工業を発展させてきたターニングポイントは決して明るいものとは言えません。しかしそこには、「どんな困難も築き上げてきた技術で乗り越えてみせる」という信念が感じられます。日本の誇りともいえる、強い底力に支えられた技術力に、これからも注目していきたいですね。


(参考文献:大田区工業ガイド

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