Mitsuriで株式会社小川製作所様を取材させていただきました。インタビューに応じてくださった小川真由さんから製造業が抱えている課題を沢山伺いました。インタビュー記事では、十分に展開できなかった課題を、全4回の連載形式で特集します。
小川真由さんが考える製造業の課題。あるべき未来の形。小川真由さんの人柄も交えながら、対談形式でお伝えします。
第一回目の今回は『小川製作所と小川真由という男』というテーマで対談させていただきました。
祖父から父、そして孫の真由さんへと脈々と受け継がれてきた小川製作所。
①小川製作所とはどのような会社なのか。
②3代目にあたる小川真由さんは、どのよう方なのか。
この2点についてお伝えします。
株式会社小川製作所
お久しぶりです。先日は長時間に及ぶインタビューを受けていただき、ありがとうございました。社内でも好評で、涙した人間もいました。社外でも興味をもらって、感想をいただいております。心より御礼申し上げます。(まだ読んでいない人はこちら)
小川氏
そうですか。
それはこちらとしても大変嬉しいことです。
取材いただき、ありがとうございました。
連載の第1回目は、『小川製作所と小川真由という男』というテーマでお話させてください。早速ですが、小川製作所について深掘りさせていただきたく思います。
小川氏
はい。よろしくお願いいたします。
町工場で3世代続くところは、なかなか珍しいというのが私共の実感です。お祖父様の創業当時のことを、どのようにお聞きされていますか。
小川氏
今の法人になる前に、個人事業として祖父が創業しました。
当時は学校等に炊事台や、ガス炊飯器等の厨房金物を作って卸すメーカーだったそうです。
今の業態のような受託開発ではなく、メーカー。
前川氏
そうですね。
当時は、割とそういう仕事があったようです。
その後、父が大学を卒業して家業に入ったころに、大手が参入するようになってきてました。
それで、事業がだんだん尻すぼみになっていったようです。
同じ時期に、建築金物も扱いだしました。
祖父がやっていた頃は従業員が4~5人。
父が継いだ頃はバブルがはじけたときでした。
1人で建築金物をやっていたそうです。
完全に個人事業ですね。
その後、父が1人でやっていた期間が20年くらい続きました。
その建築金物のお仕事も、メインのお客様が廃業によってパタッとなくなってしまいました。
それが、私の大学時代の後半くらいの頃ですね。
祖父の時代に大手競合が参入してきたことによる最初の危機。父の時代にバブルがはじけたことによる2度目の危機。2つの危機を乗り越えて、今の小川製作所があるわけですね。町工場の裏には、激動の歴史があるのですね。2度目の危機の時はご記憶があるかと思うのですが、その時はどのように感じられたのでしょうか。
小川氏
私ももう大学時代の後半で、父もある程度年齢がいっていました。
まあ仕方ないかな、くらいに思っていました。
そうなんですね。少し意外です。
小川氏
確かに、小さい頃から3代目、3代目と言われていました。
いつかは自分が受け継ぐというイメージも持っていましたが、その当時はその程度の受け止め方でした。
小川真由さんの修行時代
ありがとうございます。大学を卒業後はどのような進路を取られたのでしょうか。
小川氏
はい。大学院の理工学研究科を卒業して、富士重工業株式会社に就職しました。
航空機関係の部門で、主に設計業務に従事していました。
これは就職して勤めだしてから気づいたことなんですが。
セットメーカー(完成品メーカー)と、町工場とでやっていることにこんなにも開きがあるのかと驚きました。
これだけ違うと、今やっていることが町工場での仕事に繋がらないな、と実感しました。
それは町工場出身の小川さんならではの視点ですね。とても興味深いです。就職先でも、順調にキャリアを積み上げられていたかと思いますが、どうしてまた家業に戻られたのでしょうか。
小川氏
いつかは家業に戻らないといけないと、ずっと漠然には思っていました。
ただ、具体的に将来のことを考えなければけない、ある一つのきっかけがありました。
航空機は試作開発が終わると、飛行試験を行います。
ある航空機の試作開発を行った時のことです。その航空機の飛行試験がとある僻地で行われることになりました。
飛行試験自体はいつものことなんですが、上司から「小川もその試験に同行して、半年間○○○に滞在してほしい」と言われました。
当時、ちょうど子供が生まれそうな時で。
「半年間も滞在しなければいけないのか、家族をおいて」
その場所は簡単に行き来できる場所ではないんです。
そこに半年間いなければいけない。
長男の出産というタイミングでもありました。
他にも色々考えないといけないこともありました。
そこで将来のことを真剣に考えました。
その結果、家業を継ぐことに決めました。
人生のターニングポイントがそこにあったのですね。サラリーマンとしてのキャリアを積み上げるか、家業に戻って町工場の3代目としてのキャリアを始めるのか。
小川氏
はい、その通りです。
いざ家業に戻りたいと両親に伝えたときに、父から返ってきた言葉は「お前の仕事はないよ」でした(笑)
まぁ、父が一人でずっとやってきたのだから、私の仕事がないのは当たり前ですよね。
これではいけない、どうしようかと考えました。
何から手をつけていいかわからなかったのですが、実家から歩いてすぐのところの機械加工をやっている会社がありました。
そこの社長に直談判したんですよ。
「修行させてください」って。
で、そこで働くことになりました。
なるほど。その修業はどのような思いで行かれたんでしょうか。機械加工の技術を学ぶためなのか、それとも中小企業や町工場のビジネススタイルを学ぶためなのか。
小川氏
後者の方が強かったです。
そもそも、受託加工業がどういうものなのか、わかっていませんでしたから。
メーカーにいた頃は、予算内でものを作らなければなりません。
その際、必要となるものは営業や購買の人に依頼する。
そういう仕事の仕方をしていました。
だから、中小企業のビジネススタイルがどういうものが全然わからなかったんです。
特に経営ですね。
そういう修行をさせていただきました。
それが2008年の4月のことです。
その約半年後の9月にリーマンショックが起きましたね。
修行先では、最初に何を担当されたんでしょうか。
小川氏
最初は営業技術というものを担当させていただきました。
セールスエンジニアと呼ばれる仕事です。
営業技術で量産系の仕事を担当したところからはじまって、製造、検査、設計(CAD/CAM)、仕上げ。
この順番で各仕事を経験させていただきました。
先にリーマンショックの話をしましたが、2008年4月に転職した頃から、なんとなく世の中全体に怪しい雰囲気が出ていました。
そうしたら、案の定その年の9月にリーマンショックで。
その辺りからパタッと仕事がなくなりました。
なんとかしないといけない。
営業技術として、1社に依存する形の状態から脱却することを目標にしました。
言い換えれば、営業の立直しを行ったんです。
修行している期間は、営業や製造関係の仕事を最初の1〜2年に担当して。
3年目から経営的な面を担当するようになりました。
例えば、財務関係や人事評価、採用等も経験させていただきました。
修行の身でその会社に入ったはずですよね。いつのまにか経営面まで担当されているっていうのは(笑)
小川氏
そうですよね(笑)。
社長が話のわかる方だったっていうのもあります。
ただそれと別に、やるからにはその会社の看板を背負う。
そういうつもりでやっていました。
実際的な問題としても、自分が外に出ていったり、経営面に入り込んでいかなくては、立ち行かなくなってしまったという背景もありました。
とはいえ、自分は修行の身なので。
自分がいなくても上手く回っていく体制を作らなければいけません。
営業部分もある程度立て直して、ある程度目途を立てました。
それで、修行を終えて家業に戻りました。
なるほど。でも、前回のお話を伺った際には小川さんが家業に戻られてから、1年ほどで歌修行先の会社が倒産してしまったというお話でした。
小川氏
はい、その通りです。
私が抜けても大丈夫な体制にしていたと思ったのですが。
残った従業員の方だけでは上手くいかなかったようです。
なるほど。それは残念でしたね。
小川氏
はい。
その会社を修行先に選んだのは、実家が近かったからと言いました。
ただ、ご指摘のとおり家業の社内工程と重複がなく、しかも当時最先端の5軸のマシニング設備を持っていたんです。
だから、修行後ゆくゆくは、一緒に協力して何かやりたいと考えていました。
会社をたたむという話を聞いたときは、本当に驚きました。
地域に貢献している会社でしたし、マシニング自体も20台くらい保有していました。
陰ながら再建を願っていたのですが、継続は難しかったようです。
家業に戻って
修行先ではそのようなお話があったんですね。家業に戻られた後はどうだったのでしょうか。「お前の仕事はないよ」っていう、お父様から告げられていたとのお話でした。
小川氏
はい(笑)
だから、板金や溶接で新規開拓をしようと考えました。
最初にやったことはホームページの製作(笑)
どこでもやっていることですけど、それがうちにはなかったので。
まず、自分が何者なのか知ってもらえるようにしておかなければいけませんよね。
ホームページを作り終わったら、とにかく色んなところにメールをばら撒きました。
葛飾区のビジネスマッチングイベントにも参加しました。
ここでのイベントを通して、実際に案件化になったものがあります。
そこで出会って、今でも継続してお取引しているところがあります。
うちもメールをばら撒いまいて、小川さんと出会えた。やっぱりこれが常套手段ですよね(笑)。それはともかく、どれくらいでビジネスが軌道に乗り出したんでしょうか。
小川氏
半年くらいランニングして、軌道に乗り出しました。
当初は、自分の給料が出るようになるのかどうなのか。
しかも、家業に戻ってきた当初は、午前2〜3時に寝て、6時起き。
そういう毎日でした。
このとき自分のことを自己ブラックと定義していました(笑)。
自己ブラック(笑)。ずっとお一人でやられてたんでしょうか。
小川氏
当初はそうでした。
ただ、しばらくしてして近くに住んでる姉に経理として入ってもらいました。
その後、嫁が営業補助として手伝ってくれました。
正に家族経営の町工場。
2015年に法人化したのですが、その時に従業員に1人入っていただきました。
現在、社内工程のメイン作業は従業員2人に担当していただいています。
それに加えて、父と私。
総勢4人の体制でやっています。
お父様はまだ現役でいらっしゃるのですか。
小川氏
父は72歳ですが、バリバリの現役です。
職人として現場に立ち続けているせいか、本当に元気ですね。
私自身は研磨職人(ラッピング加工)としてやっています。
1日10本は磨くという自己ノルマを立てています。
小川さんは設計の人で、現場に立たれないイメージを持っていました。ここまで、小川さんと小川製作所の過去と現在の話を伺えたと理解しています。未来についてはいかがでしょうか。
小川氏
そうですね。
何年かかるかわかりませんが、自社製品を作りたいです。
創業当初のようなメーカーに立ち返りたいので。
少しずつですけど、そこを目指していきます。
前にお話ししたように、弊社には3つ事業があります。
売上比率でいえば、粗利ベースで上手くバランスが取れています。
社内工程をきちんと意識して、全体としてバランスが取かれるようにしています。
社内工程は100%の稼働率。
これは、あくまで社内工程が基礎にあってはじめて、その他の事業があると考えているからです。
これは、今後も変わらないです。
社内工程に関していえば、少しずつでも事業を拡張していきたいと考えています。
次に、最先端技術に関わる社外ネットワークの事業。
ネットワーク自体を拡大させて、社内ネットワークを大きくしていきたいと考えています。
これらを達成してはじめて、自社製品を作るというメーカーへの立ち返りが見えてくる。
そう思っていますね。
今はそれに備え、技術を磨き、経験を積み上げている段階です。